yamamba’s diary

日朝国交正常化なくして、拉致問題の解決はなし

【日の丸・君が代 総合スレ】2ちゃんねる論争 2004-2012年

上司の意味不明な職務命令に従う義務はあるか?

国歌斉唱とかのとき歌わなかったり立たなかったりする教師 part4
2ちゃんねるの過去ログは、5ちゃんねるの書庫で検索してみる事ができましたが、2021年頃に閉鎖され、現在はリンク切れ状態で見る事ができません。書庫の再生の可能性もあるので、一応スレッドのタイトルを残して置きます。2022/5/10記)

◆ 17 :朝まで名無しさん :04/05/06 02:36
昔より、鰯(いわし)の頭も信心からと言いますから、君が代でも、日の丸でも額面に飾れば、バカな国民はみな有り難くなるのですよ。
そして自分が有り難いと思っているものを、他人にも強要したくなるのです。
○○学会の入会オルグと同じ様なものです。
しかしこっちの国家オルグは、一層始末に悪くて、強権力をバックになかば脅迫ですから、入会を断るにはなかなかの度胸と根性が必要な様です。
でも、私なら死んでも、鰯の頭に自分の頭を垂れる訳にはいかないなあ。(藁

◆ 59 :やまんば :04/05/06 14:24
鰯(いわし)の頭と「君が代」「日の丸」は同じか?
私の様に「同じだ」と考える人は少数かも知れないが、それに起立し、敬礼しなければならない「理由」が合理的に説明されていないのであるから、同じ事である。
何となく有り難い気分になるとか、うれしい気分になる人達が国歌・国旗に敬礼するのはカラスの勝手だが、<気分>の共用を「強要」されるのは、気持ち悪い。

あ、そうそう話題は「国歌・国旗」問題ではなく、教師、公務員等が職務規程に従うべきだという義務規則一般の話だったのかな?
それなら、君は校長あるいは教育委員会から、お尻丸出しの子豚ちゃんの格好で校庭のグランドを一周せよと<職務命令>が出されたら、それにも黙って従うのか、と聞いた訳だ。
お隣の教頭に<職務命令>で、お手々を繋いで君が代を一緒に歌いましょうなんて気味悪く言い寄られたら、教員はそれを拒否する自由はないのか?
まあ、私には石原都知事の職務命令は、それほど不合理な、理屈にあわない変態要求にしか映らないという事である。

◆ 209 :やまんば :04/05/07 14:04
さげ氏
>私が問題にしているのはあくまで今回の事件についてです。そしてそれは単に遵法の問題でしかないわけです。

そうかな?
教職員が公務員として、国あるいは地方行政機関の職務命令に「無条件」で従う事を「遵法」というなら、私は例えばの話で、教育委員会や校長が尻丸出しのお豚ちゃんの格好でグランド一周しなさい、と命令したら君はそれに黙って従うのか、という問題を出した。
それが極端な例で答えようがないというなら、「天皇陛下万歳」を唱和しろと命令されたらどうなのか?日の丸を前にして単に起立ではなく「土下座しろ」と命令されたら、どうなのか?
当然、さげ氏の「遵法」理論だと、中味を問わないで公務員は粛々とその国家、上級行政機関の「職務命令」を実行しなければならない事になる。

さあ、どうかな?それでも「職務の中味」を問わないで、職務命令遵守の形式論議で話を済ませると思うかな?
怖らくさげ氏は、「国歌・国旗」に敬意をしめし直立不動の姿勢で臨む事を余りに「自明な」国民としての態度と思い込んで、「職務命令」に何らのイデオロギー性、宗教性が含まれていないと「誤解」している様だ。
だから公務員として国家・行政機関の職務命令遵守を「常識」=合法という形式カテゴリーで語る事が出来るのである。
だがその「常識」は、あくまでさげ氏の「常識」=イデオロギーであるという点を捨象してはならないのである。

◆ 236 :やまんば :04/05/07 15:14

>いや、その私からみても例え話ばかり多すぎて、しかもその例え話があまりにも非常識です。

でもねえ、今回の東京都における職務命令強制、教員の大量処分は、元を辿れば石原都知事の判断ですよ。
彼がそんな「常識的」価値観の持ち主だと思いますか?
建国義勇軍のテロを支持し、彼らが警察に捕まっても謝罪一つなく開き直って行政庁のトップで居座り続けているお人です。
これも君は「常識的」だと思いますか?
それから歴代の文部大臣、副大臣事務次官とか言われる人達がどんな「常識」の持ち主であったか、調べればすぐ分かるでしょう。
つまり、行政庁幹部役人の「常識」なんかをあてにしていると裏切られるのは我々大衆なのです。確かに私の事例は「非常識」で極端かも知れない。
しかしそんな「非常識」がいつの間にか「常識」にすり替えられるのです。新兵教育で上官の命令は絶対である事を教え込むのに、わざわざ「不合理な命令」(尻丸出しのお豚ちゃんの例もあるでしょう)を出してそれに従わせる、という軍隊教育が「常識」でまかり通った時代はつい先日の事です。
石原都知事の「常識」が戦前の軍国主義の「常識」と同じかどうかはいまは問わないとして、行政組織のトップダウン方式をそれに準えて「民主主義的仕組み」を骨抜きにしようと奔走している可能性は高いとみるべきでしょう。

◆973 :やまんば ◆HxgXEEbvX6 :04/06/12 19:50
>>959 >id:pnPuLDn4クン

それじゃ、君に引き続き聞くが、「君が代」斉唱が、学校の儀式の中で「一般的な(当たり前な)儀式的行為」と認定される様になったのはいつの時期からか?そんな遠い昔の話か?(少なくとも「一般的な行為」として、私の記憶にはないな。)
東京都でも、卒業式で出席者全員が起立して君が代斉唱を行う学校が50%を上回ったのは、確かほんの数年前の話だと思うが。

60年前の日本では、「天皇陛下万歳」を唱和する事は日本の主な式典で「一般的な(当たり前な)儀式的行為」であった時期が間違いなくあった。
しかしそれは日本の敗戦とアメリカ型主権在民思想の導入で「一般的・常識的行為」としては否認された。
この戦後からの比較的長い期間、「君が代」も国家の正式な式典で楽器演奏はされても、歌詞が歌われるのは希有で行為であったはずだ。(例えば、大相撲の千秋楽に例外的に歌われるとか)。
かように、「一般的な(当たり前な)儀式的行為」などというものは「移ろいやすい」ものである。

君が国歌国旗に賛成するのもよし。ただ、その賛成の<根拠>があやふやで怪しげな世論、マスコミの風評で作られた「一般的常識」ってやつを頼りにただ闇雲に「多数派」の意見に追従するだけなら、君の場合、「君が代」斉唱と「天皇陛下万歳」唱和の間に、その一線を越える大きな断絶はないはずだ。

◆521 :やまんば ◆HxgXEEbvX6 :04/06/04 20:38
>子供の批判能力を育てるというのが左翼教師の間違っているところで、子供は極端な思想から離れて、中立の立場で教えるのが教育なのです。批判の名をいいことに自分の偏った思想を植えつけようというのが左翼教師の狙いでしょうが、もはやそんな時代ではないのです。共産主義北朝鮮、中国だけです。

君は、教育のイロハのイが分かっていないのだよ。
<批判>というのは、論理学で言う物事の本質にアプローチする場合の基本です。
カントが「純粋理性批判」とか「判断力批判」とかの用法で使用して一般化した概念で、原語criticismから、簡単に言うと物事を見分ける=分析する、と言った程度の意味になります。

物事を本質的に理解するという場合、人間の感性的実感に映る事象を自明なものとしては一度それを否定し、現象と本質、普遍と特殊、全体と部分、主観と客観等々の要素に分解し、再構築する作業が必要になるのです。
物事の本質が、ただ単純に見たままの事象で語られるなら、学問・教育に何の努力も要らないのです。単なる「知識」(Knowledge)の量を増やせばよいだけです。ガリ勉で一生懸命教科書に書いてある事を暗記すれば「賢く」なった積もりで居られるのです。
しかし本質的な「知恵」(wisdom)とは、知識の単なる量ではないのです。

本当の知恵は与えられた解法からではなく、疑問から育つのです。
疑問が無ければそれを解く為の知恵も必要ありません。<批判能力>を否定するという事は子供達から<疑問>それ自体を取り去るという事を意味します。
日本の教育がそうした子供達の「疑問」自体の否定に向かうなら、日本の社会的進歩は確実にそこで止まるでしょう。
従って、子供の批判能力を育てるというのは、左翼も右翼も関係なく本来の教育の眼目であるはずなのです。

ちょっと君には話が難しかったかな<正義の味方クン (藁

◆532 :やまんば ◆HxgXEEbvX6 :04/06/04 22:11
>君が代だろうがなんだろうが自分の国の国歌を知らないし歌えないってのいうは
>ただの常識知らずで国際レベルの恥。歌えて当たり前。歌わないのとはわけが違う。

別に君が国歌を歌えたからと言って「国際レベル」の人間になっているとは、私には思えませんが。
外国人が自国の国歌を歌えたからと言って、特別に関心する程の話とも思えないし。
君なら、中国人が来日したときに「義勇軍行進曲」を大声で歌っているのを、聞きたいと思います?

やはり「国際レベル」の価値観の相違でしょうか?(藁

◆549 :やまんば ◆HxgXEEbvX6 :04/06/04 23:01
>>539
この場合、どうも日本人って、右へ倣え右、左へ倣え左、といった号令が発せられると皆一緒の方向に向かないと落ち着かない国民性の様だ。
それと、お節介に、「校長先生が右へ倣えと言っているよ」などと、隣の人に声を掛けないと気が済まない国民性の様だ。
だから、それがつまらないイベントであっても、一人だけ反対の方向を向いていると、村八分、袋だたきの大騒ぎとなる。
この辺の国民性を熟知して、つまらないイベントで大騒ぎのネタを仕込んだ石原慎太郎もなるほど元作家だけあって、演出が巧みといえばたくみであった。
その下手な演出に踊らされている阿呆の自作自演劇を、私たちはいま目撃している様だ。

◆562 :やまんば ◆HxgXEEbvX6 :04/06/04 23:41
>法律に従い右へ倣え、という号令が出ているのに無視するのがあなたの理想とする国民性か。

では、君に率直に質問するが、

1 国旗掲揚の位置はステージの中央とし、児童生徒が国旗に正対するようにする。
2 式次第の中には国歌斉唱を位置づけ、その式次第に基づいて進行をおこなう。
3 国歌斉唱はピアノ伴奏でおこない、児童、生徒及び教師の全員が起立して正しく心を込めて斉唱する。
4 原則として、教師全員が式に参列する。

↑この「右倣え」という号令は、「法律」か?

国家主義への礼賛

公立学校教師の国旗掲揚・国歌斉唱に関する問題 16

◆397 名前:やまんば[sage] 投稿日:04/06/22 10:09

それにしても北朝鮮国家主義体制を散々コケにしていた同じウヨ厨諸君が自分の国の全体主義国家主義体制の復活にはまるで気が付かない というのは、どういう事だろう? 
赤いパンツを白いパンツに履き替えておけば、中身は同じでも心配はない、とでも思っているのだろうか? 
それとも、もうちっと理論的に、官僚主義にも2種類あって、独裁的官僚主義と民主的官僚主義は決定的に違う、という高級な仮説理論でも持っているのだろうか? 
でも、彼らの主張を聞いていると、ただ単に「御上の命令に従え」「御上のやる事に大衆が楯突くのはけしからん」という主張を、壊れたレコードプレイヤーの様に繰り返しているとしか思えんが??(藁

マインドコントロール

◆260やまんば :04/07/02 01:46
 国家の指導者達が国旗国歌の国民的認知をより高めたいと思うなら、誰かさんが以前言っていたように、まず中央官庁や都庁の幹部が朝礼で毎日職員全員を集めて、国旗掲揚・国歌斉唱をやり、国民に彼らの「愛国」への熱情と手本を示せば良いでしょう。

しかし、なぜそれをやらずにイの一番に「教育現場」への国旗国歌の導入として画策されているかというと、それはやはり子供達がターゲットだからであり、子供達への「刷り込み」教育が目的だからに他なりません。
疑念のない純粋無垢な幼い子供である内に、国家(指導者)への無条件な忠誠心を刷り込む事、その為にまず身体的に(条件反射的に)国家を象徴するシンボルへの畏敬の念、尊敬の念を植え付ける事、この目的に尽きます。

ある意味で、大人達はみなそれ(国旗国歌)の目的など百も承知なのです。
>>100さんが、いみじくもきちんと「忠孝の精神」「教育勅語」の意義を並べて
この国旗国歌問題の本質を説明している。
そうした「フィクションの共有」というマインドコントロールの手法が、子供達を如何に容易く「調教」するか、それは戦前の日本や北朝鮮の教育実績をみれば一目瞭然です。
戦後民主主義の教育は、そうした洗脳的手法、身体的調教という手法を使わなかったが故に自分の頭で考える思考能力のある子供達の育成に幾ばくか(まあ最上を望めば切りがない)成功してきたのですが、そういう批判能力を持つ国民の育つ事が、日本歴代の国家指導者達にとって、常に癪の種で有り続けて来たわけです。

東京都教育委員会2003年「10・23通達」=礼儀のお作法

[●] ┫日ノ丸┣ 公立学校教師の国旗掲揚・国歌斉唱…29┫君が代┣ ♪

◆ 64 名前:やまんば 投稿日:04/08/14 13:42
ちなみに、そのアホなエリート学校出の都教委の役人が思いつきで作文した「常識 
(礼儀)」の作法とは次の様なものである。 
これらの内容をよ~く読んで、国旗国歌に対するこの画一的な「常識(礼儀)」の 
作法が何故に必要なのか、どんな「意義」があるのかよ~く考えて貰いたい。 

 

都教委「入学式、卒業式 における国旗掲揚、国歌斉唱にかんする実施指針」 
1 国旗の掲揚について 
 入学式、卒業式等における国旗の取扱いは、次のとおりとする。 
 (1) 国旗は、式典会場の舞台壇上正面に掲揚する。 
 (2) 国旗とともに都旗を併せて掲揚する。この場合、国旗にあっては舞台壇上正面に向かって左、都旗にあっては右に掲揚する。 
 (3) 屋外における国旗の掲揚については、掲揚塔、校門、玄関等、国旗の掲揚状況が児童・生徒、保護者その他来校者が十分認知できる場所に掲揚する。 
 (4) 国旗を掲揚する時間は、式典当日の児童・生徒の始業時刻から終業時刻とする。 
  
2 国歌の斉唱について 
 入学式、卒業式等における国歌の取扱いは、次のとおりとする。 
 (1) 式次第には、「国歌斉唱」と記載する。 
 (2) 国歌斉唱に当たっては、式典の司会者が、「国歌斉唱」と発声し、起立を促す。 
 (3) 式典会場において教職員は、会場の指定された席で国旗に向かって起立し、 国歌を斉唱する。 
 (4) 国歌斉唱は、ピアノ伴奏等により行う。 
  
3 会場設営等について 
 入学式、卒業式等における会場設営等は、次のとおりとする。 
 (1) 卒業式を体育館で実施する場合には、舞台壇上に演台を置き、卒業証書を授与する。 
 (2) 卒業式をその他の会場で行う場合には、会場の正面に演台を置き、卒業証書を授与する。 
 (3) 入学式、卒業式等における式典会場は、児童・生徒が正面を向いて着席するように設営する。 
 (4) 入学式、卒業式等における教職員の服装は、厳粛かつ清新な雰囲気の中で行われる式典にふさわしいものとする。 

 

◆ 66 名前:やまんば 投稿日:04/08/14 13:46 id:s4RNBdWC
繰り返して言うが、留意すべきなのは、(この東京都の実施指針のごとく)国旗・国歌への賛否の問題だけではなく、国旗 ・国歌への「常識(礼儀)」の作法が事細かく行政機関によって指示されている事である。
これらの作法に従わなければ、「国旗・国歌」を真っ向から否定する者、国旗・国歌への反対者・反逆者と見なされるという事である。 
約めて言えば、ある役人が思いつきで、天皇御真影を体育館の舞台壇上に置いて、 「万歳三唱」を叫ぶ様に式次第に盛り込んだとしても、それが国旗・国歌への礼儀の作法 法と解釈される限り、それの恣意性に反対する根拠は奪われる事になる。 
教師、生徒、保護者らは「国旗・国歌」への礼儀の作法を勝手に解釈してはならないという事である。 
君が会場の入口で、係員に呼び止められ、君の服装が国旗・国歌への礼儀の作法にある「厳粛かつ清新な雰囲気」のものではない、と認定された場合、卒業式への入場を拒否されるか、ないしは後から都教委による処罰のお沙汰があるのである。 

第1の疑問、都教委に国民の式典に関しそんな「常識(礼儀)」の作法を指示する権限などあるのか? 
第2の疑問、仮にその権限が越権行為とまで言えない場合にも、その「常識(礼儀))」の作法は、入学式・卒業式という学校の式典に本当に必要なものなのか? 
第3の疑問、都教委の職務命令は、文科省の「学習指導要領」に準じたものとされているが、そうすると国旗・国歌への礼儀の作法は、政府・文科省によって既に決定された事柄だという事なのか? 
その作法は石原都知事と都教委が勝手に創作したものと違うのか? 
第4の疑問、都旗が日の丸と並べて掲揚するとあるが、「起立行為」には都旗への儀礼も含まれているのか?その儀礼は学習指導要領によって指示されたものなのか? 何か他に法律的根拠があるのか?

右翼の国体教育

公立学校教師の国旗掲揚・国歌斉唱に関する問題 20

◆ 383 :やまんば :04/07/02 23:38
>「教育」という視点が抜けている(「教育」の話だったよね?)
>「教育」なら「カラスの勝手」とはいかんだろ(w

あ、そうそう、私は民間人だからね、その辺は勝手なんだけれども、公教育という事になると、勝手な洗脳教育は「許せねエーー」という話になる。
何せワシらの税金を使った学校だからね。お前等右翼の好き勝手させるカーという話になる。
それに子供達に対する公教育の水準は、日本の将来にとって重大案件である。
右翼自民党に好き勝手させていたら、公教育の水準は益々低下し、海外への頭脳流失は止まらず、国家への寄生害虫だけが増殖し、国家資産を食いつぶし、日本の国土は荒廃を極める事になる。

「国旗国歌」の国民への強制とは、そうした国家に寄生する害虫(高級官僚)ども
の免罪符に他ならず、又しても「天皇」のご威光に隠れて悪さを企む腐敗役人・軍人達の通行手形なのである。

 

◆485 名前:やまんば 投稿日:04/07/03 19:35
>学校とは、学問のみを教える場所ではない。
>集団での規律、社会での規律を教える場でもある。
>特に、学校以外でも学問を行う場所が豊富に存在する現代日本社会においては、学校における後者の教育は重要度の比率を増していると言える。
>したがって、むしろ「生徒の心理を事実上強制すること」こそが、学校教育における重要な責任の一つなのだ。

ほらほら、私が以前から何度も指摘してきた事柄が、本音としてきちんと語られているでしょう。
それが石原都知事、都教委の「教育方針」、日の丸君が代を強制する理由である、と。
(誰ぁれ?強制が目的ではない、などとウソを言い廻っていた人達は?)

ついでにわざわざ、石原都知事の好むスパルタ教育の「心理」的効果まで見事に語ってくれている。
石原の主張するスパルタ教育の手法が、この新しいスレで議論になっている「洗脳」「マインドコントロール」に当たるかどうか、私はあまり独断即決で決めつけるつもりはないが、その疑いは十分、と言っておこう。
要するに民間の戸塚スクールでやったことを、公立学校で大々的に公権力のお墨付き
でやろうというのだろう。そのためには、もちろん左翼の教師は邪魔だし、戸塚スク ールの校旗ではとても都民の信用が得られないから、石原国民学校のシンボルは、やはり日本の国体を象徴する日の丸・君が代でなければならない、という訳だ。

左翼批判の筋違い

公立学校教師の国旗掲揚・国歌斉唱に関する問題21 
659 :朝まで名無しさん :04/07/12 23:18

>日本の公務員って、何故左翼的な考えに傾倒するんだろう?
>国のために働く人たちじゃん。
>世界中でも、こんな国、日本だけじゃね?

それは多分、戦後、法律はバリバリの最新西洋式のものを導入したのだが、「国体」精神そのものは、まるっきり戦前の様式が残ってしまったという世界でも非常に珍しい日本の特殊事情によるだろう。(ふつう「和魂洋才」とも言われる。)
だから公務員は、西洋式の法律では人民主権に準じて、国民に奉仕しなければならないのだが、戦前の国家職務に寄生して生き延びた日本の高級官僚は一般公務員に向かってひたすら自分たちへの無条件忠誠を要求する。
板挟みになった公務員は、やはり憲法精神に則り国民奉仕の道を本義としたので、彼らは国家の官僚から「裏切り者」=左翼のレッテルを貼られた。レッテルを貼られた彼らも、左翼の称号をあえて名誉として受入れた。つまり西洋式民主主義者は、この国では総じて左翼と呼ばれた。(韓国でも同じ様な特殊事情にあった。)
まあ、こんな経過になるのじゃないかな?(藁

ロボット教師の育成

[●] ┫日ノ丸┣ 公立学校教師の国旗掲揚・国歌斉唱…28 ┫君が代┣ ♪ 
 910 名前:やまんば 投稿日:04/08/12 23:37

教師は、自分で勝手に教育を考えてはいけない。 
公務員として上司の命令にひたすら忠実である事がよき教師のお手本である。 
まあこのスレの多くの皆さんはこうおっしゃる訳ですね。 
だからこれからは、教育指針は全部、文科省と地方教育委員会が決める訳ですね。学校の教師はただその指針を忠実に実行するロボットであればよい訳です。 
(もう実際に、これは90%以上現実となっていますが。) 

何か現場でトラブルが生じれば、文科省と地方教育委員会がきちんと責任をとってくれるでしょう。少年の非行・犯罪もこれからは左翼教師に責任転嫁はできないので、彼らがきちんと面倒と 後始末をつけてくれるでしょう。 
少なくとも責任を、自分自身で判断能力を持たないロボット教師に押しつける事はできないでしょう。 教育問題に関心のある皆さんは、これからは学校の教師ではなくて 
行政組織のクソ役人の一挙手一投足に注目しましょうね。 
そして最後まで彼らに教育行政の責任をきちんと取って貰いましょう。


◆945 名前:やまんば 投稿日:2005/05/19(木) 22:41:21

>当該職務命令に法的根拠があるにしろ無いにしろ、 
>俺だったら従うね。 
>立って国歌歌うだけだからね。 

まあ、思想的になあ~にも考えなければ、ロボットの様に君がそう反応 する理由は分かる。 大部分の教師もなあ~んにも考えないで、そうしているだろう。 
(なんたって起立率は99%だ、という事をお忘れ無く。) 

しかし、その職務命令を出している方は、十分にイデオロギー的根拠があって、それを命じているわけだな。 
早く言えば、国民の調教に必要なアイテムが国旗国歌だ、と狙いを定めた訳だ。(天皇制も持ち出すのはまだ早いし、法的な整備も追いつかない。) 

よほど思想的に深めた考えがなければ、単純に国旗国歌に反対する態度を打ち出すのは難しい。なんたって国家の権威がバックにある。右翼の恐喝もある。生活費も脅かされている。 
大部分の国民が逆らえないだろうと見越して、邪悪な政治家と役人が国民に国家の一時的なロボットになるように仕組んでいるわけだ。 
一旦思考し停止した行動は、その他の日常生活の場面にも拡大・適用される事になるだろう。
こうして日本人の思考停止した日常生活の劣化は日々加速されている。 
国家の自己満足的な権威を高める稚拙な行動が、日本をまさに北朝鮮以下の三流国家に転落せしめるだろう。 


◆947 名前:やまんば 投稿日:2005/05/19(木) 23:00:58
>>946 
>心底、敬意を持って起立するようにさせないと。 

一遍にそこまでは無理。まだ日の丸・君が代をやたらと振り回す事に不信感を持つ お年寄りも多い。 
取りあえず、子供たちに余計な邪念を持たせる事なく、「なあ~んにも」考えないで黙ってって組織の指示命令に従う事の日常習慣を覚えさせる事が肝要。 
(その為に、余計な邪念を与える左翼教師から彼らを切り離す必要がある。) 

ニワトリにそれなりの成分の肥料を与えれば、それなりの成分の卵を産むだろう。 
どんな卵を産ませるかは肥料次第だとすれば、取りあえず彼らを鶏舎に囲っておく管理方式だけが大事、というわけだ。(藁 


◆951 名前:やまんば 投稿日:2005/05/19(木) 23:50:23 ID:1zejOp6J
>>948 
>何にも考えないで、とは心外だなぁ。 
>それじゃあ、まるで周りが立っているから立ってるみたいじゃないかい。 

そりゃ、実態だから君が不平を言ってもしょうがないでしょう。(藁
だって、国旗国歌になぜ起立・敬礼するのか、その職務命令の意味を巡ってこれほど延々と議論を重ねても、さっぱり意味が分からない。 
ある人は礼儀だといい、ある人は公務員への単なる職務命令だといいある人は愛国心だといい、ある人は国際習慣だといい、ある人は団結だという。みんな言っている事はてんでバラバラ。 
つまり、誰もその都教委の職務命令の真の意味が分からないで、とに角、「形だけでも」起立命令に従うのが賢明という「常識的」判断に落ち着いている。 
理由を知りたければ、その職務命令を出した教育委員会に聞くのが一番。 
しかし教育委員会のホームページのどこを読んでも「なあ~んにも」書いて いません。要するに「服務事故があった」というだけしか書いておらん。 

一体全体、理由もわからず皆、とに角それが文部省、教育委員会という権威ある組織が出した職務命令だから、多分間違いはないだろう、という勝手な推測で肯定しているだけだ。 誰も、本当に頭を使って、その職務命令の怪しさに疑いを持たない。 

それほど日本の一般大衆は国家の役人や政治家からバカにされ、舐められているという事なのだよ。 

「右倣え」の常識と非常識の逆転

http://【国旗国歌】国旗・国歌問題ニュース総合スレ 5 【愛国心】

◆69 名前:やまんば[sage] 投稿日:2005/04/20(水) 14:34:41
>>66 
日本列島は数千人しか住まない村社会じゃないのだから、その自然、不自然という つまらない議論はいい加減に止めたら? 
何を自然、不自然と思うかは、個人の主観的問題で、実に多種多様な意見があって当然でしょう。 そもそも 
>一方、式典で国歌斉唱時に全員が起立する姿は、社会人なら経験で、 この姿が自然だという事を理解しています。 
・・・なんて全く君の主観的な意見でしょう。 

私なんか、社会人になってから(学生の頃も)一度も国歌斉唱もなどやった事はないし、それで何か不便を感じた事もない。これが私の「自然」です。 
最近、プロ野球の会場でも試合開始前に国歌・君が代の楽曲を流す事が多くなっているようだが、もち論、私は起立しません。国際試合や年に1回の開幕試合か何かなら分かるが、何も国内試合で一々国歌を演奏する必要もないでしょう。 時間の無駄。(アメリMLBの物真似だね。) 

確かに、学校での国歌国旗教育を受け、社会生活の面でもじわじわ国旗国歌が浸透しつつある事は感じられるが、まあ一時期の政治的反動でしょう。 
つまらない愛国主義国粋主義がそれぞれの国で蔓延すると、間違いなく国際紛争がおきます。それを自然と感じる人達が多いという事は、まあそういう政治的反動の時代風潮が強まっているという事ですが、情緒に流される事の危険性には十分な認識が必要でしょう。 


ちなみに、1999年段階における公立小中高学校での国歌斉唱率(卒業式)は多くの地方で100%になっているが、東京都の公立高校でが59%、神奈川県で26.6%、政令指定都市大阪市、神戸市、川崎市に至っては0%である。 

http://平成11年度入学式における国旗掲揚・国歌斉唱の実施状況 

この場合、そこの学校に通学している高校生には国歌斉唱は伝統として無いのがむしろ自然と受け止められるだろう。 まあ自然、不自然などと言ってもその程度のことでしかない。 
もち論、文部省や教育委員会の役人は、国旗斉唱・国歌斉唱を国民の間にごく「自然」のこと思わせる為に、その達成率を上げるのに血眼になっている。 
達成率が全て100%になれば、自然認知度もこれまた100%という次第である。 

右倣え右の号令は、もはや役人の号令ではなく、国民自身のごく「自然な振る舞い」として強要され、号令に反するのは不自然な振る舞いとなり、めでたく異端者の称号を戴く。(藁 

 

◆78 名前:やまんば 投稿日:2005/04/20(水) 16:09:12
私がこの議論に参加して、迂闊にも途中から気がついた事は、どうやら「不起立教師」に反発している人達は、(右よりの)イデオロギー的な理由というよりも、小学校から 中学校、高校に至るまで学校の卒業式・入学式などで、日の丸掲揚・君が代斉唱が習慣付けられて、全く違和感もっていない子供たちだ(今は大人でも子供の時代に そうした学校教育を受けてきた)という事実関係だ。 

例えば、こんな↓意見に代表されている。 

前スレ>>615 
>いやなことは従わなくてもよい 
>なんて非常識に染まったのが教師なんかする資格はない。 
>いやでもやらんきゃいけないばあいがあるんだよ。 
>不起立教師はあまったれ。国歌斉唱時に起立したらショックで死ぬとでも言うの 

つまり彼にとって、学校の入学式・卒業式での国旗・国歌への起立・敬礼は習慣化され 
何の疑念もない、ちょっぴり面倒ではあるがごく「自然な振る舞い」を意味した。 
その様なごく自然な日常習慣を、頭から否定するがごとき、一部「不起立」教師の振る 
舞いが、彼にはどうしても理解できないばかりか、怒りすら感じたところの理由である。 

東京都の公立学校の「不起立教師」たちは、日の丸・君が代が学校の教育課程に強引に持ち込まれてきた歴史を知っている。だから、教育委員会の提案を受けて素直に「はいそうですか」という形で児童・生徒に教える事の疑念がある。 
ところが、その様な歴史的経過を知らず、学校に入学した時から日の丸・君が代がごく普通の日常生活の中にある子供たちにとっては、「国旗掲揚・国歌斉唱の理由」など関係がない。不起立教師の主張は彼らには「屁理屈」の様に聞こえる。 

ただ朝礼の時の号令にごく当たり前に「起立」し、入学式・卒業式では前年と同じ作法でごく自然に国歌を斉唱する。従って、その行為の意味など考える理由もないのである。 まさに、それは彼らにとって「常識的な立ち振る舞い」なのである。 

◆81 名前:やまんば 投稿日:2005/04/20(水) 16:33:13
学校教育への国旗・国歌学習の導入を規定した文部省の「学習指導要領」には 
ただ次の様な記述があるだけである。 

>3 入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚する 
>とともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする。 
http://www.nicer.go.jp/guideline/ 

たったこれだけの文章が、全国数十万の公立学校で国旗掲揚、国歌斉唱を実施するところの「合法的」根拠である。 

同様に、都教委の10・23通達も同様の記述がある。 
http://www.kyoiku.metro.tokyo.jp/press/pr031023s_2.htm 

>東京都教育委員会は、児童・生徒に国旗及び国歌に対して一層正しい認識をもたせ、 それらを尊重する態度を育てるために、学習指導要領に基づき入学式及び卒業式を適正に実施するよう各学校を指導してきた。

で?その国旗掲揚、国歌斉唱の「意義」とはナンジャラホイ?と聞いてもそこに答えはない。 

国旗、国歌に対して「一層正しい認識」とは、どんな認識の事なのか? 
「尊重する態度」の為に、どうしてこれまで学生と教師の対面式であった卒業式の形式を 壇上に向かって全員が正対する形式に改めなければならないのか・・など 、な~んにも理由説明はありません。 

その公式の説明がない以上は、みんながそれぞれ勝手に国歌国旗の「意義」「尊重する態度」 ついて想像を巡らすしかない。
だから、この2ちゃんねるでも皆さんが勝手に、いや「礼儀」の問題だの、いや「自然」の問題 だの、いや「道徳」の問題だの、いや「国際習慣」だの、いや「公務員の職務規律」だの、いや「愛国心」の問題だの、と議論百出、百家争鳴状態で、いつまで経っても意見がまとまらないのである。(藁 

◆92 名前:やまんば 投稿日:2005/04/20(水) 17:13:50
>>81 
そこで皆さん、ちょっと「変だ」とは思いませんか? 
なんで、国旗国歌の意義について、それを指示している側のきちんとした説明が無くて、その受け手側が勝手に「意義」についておしゃべりしているのでしょう? 

国なり地方教育委員会は、国旗国歌は「強制ではない」と何度も繰り返し言明しているにも関わらず、この2ちゃんねるの厨房諸君は、いや「強制だ」と「強制が当たり前」などと勝手に主張してしまう。 
終いには、国旗に向かって勝手に「天皇陛下万歳!」を叫ぶ輩まで出てくる始末。(藁 
(ラインハルト、オマエのことだよ。) 

つまりこれらの事情は、実は「国旗・国歌」には何の理屈も必要ない、という事を物語っている。 
私が、前スレで述べた様に、それは理屈ではなく単なるシンボルのイメージ操作に過ぎないという事です。シンボルの理屈については人それぞれ勝手に屁理屈を並べればよい。 理由がわからなければ却って「神秘性」が増して、有り難みが高まるかも知れない。
要するに鰯(いわし)の頭と同じ、信仰心を持つには具体的な偶像はなんでもよい。 
皆が同じ方角を向き、同じ対象に向かってお辞儀を繰り返し、この雰囲気の情緒を共有する事が大事、国難に際してお互いが「心」を<一つ>にすることが大事、という訳です。 

「心の共有」を拒否するものは、異端者とみなされなれなければならない。何故なら「心」は理屈ではなく、皆が「仲間である」というそれ自体が自己完結した意識そのものでなければならないからです。だから国旗国歌が「愛国心」涵養と結びつけられる時、(これは既に述べた 様に、現在段階では文部省も教育委員会も公式には言明していない)、それに向かっての信仰告白の儀式では、一人の例外者も認められないのです。 
例外者はその会場を去るべきであり、あるいは国家への反逆者として必ず処罰されなければならない、という信仰者自身からの声がこうして高まってくるのです。 

愛国のお作法 

国旗・国歌と公立校教職員の義務と権利【口パク共和国】
http://news18.2ch.net/test/read.cgi/news2/1120579045/
408 名前:やまんば 投稿日:2005/07/15(金) 11:28:34

>401 
>国民が国を愛するのは当然だろう? 

「愛国」という言葉を誤解してはいけない。愛国とはそんな生やさしものではないのである。 
愛国というのは、いざとなったらお国の命令で命を捨てる覚悟のことだ。 
少なくとも一般国民がそのニュアンスをどう理解しようと、それを御上(役所)が「強制」するときには、それ以外の意味はない。 
(御上の必要のないときに、国民が勝手に「愛国」を語って暴走すると弾圧されるのは 
そのせいである。) 

で、人一人が自分の命を捨てる覚悟というのは並大抵の事ではない。よほどの理由がなければならない。君の様に月並みな郷土愛のレベルで収まる「愛情」の話ではない。 
だから、お国の為には命を捨てる覚悟のある「愛国心」には、なかば宗教的な熱狂と長たらしい思想信条の説教が必要になってくるのである。 

国家主義を宗教のレベルまで高める必要がある。さもなければ仕事もまともにせず 汚職まみれで給料泥棒の役人の言うことなど誰が素直に聞きますか? 
石原慎太郎の安っぽいカリスマ的アジテーションでは全く物足りない。 
結局、「愛国心」の完成の為には、靖国神社の再登板が必要となる。 

何事も手順が必要になる。終戦後60年が過ぎたとは言え、お年寄りには過去の戦争に対する嫌悪感と反省があり、中年の世代でも戦後民主主義に対する根強い信仰がある。
一挙に靖国愛国心をばらまくわけにはいかない。 
まずはプチ愛国、ソフトタッチの愛国を若者に広める事である。愛国という言葉に国民が違和感を持たなくなる事が肝要。サッカーの応援で日の丸を振るのがあたかも愛国と 
思わせる事である。愛国とはごく「自然なものだ」と感じさせる事である。 

しかしそれらは単なる前準備の愛国であって、本物の愛国ではない。 
本物の愛国ともなれば、サッカー場で流行歌手がおかしな音階で「君が代」を歌ったり浮かれた裸姿の若者が日の丸を振ったりしたら、懲罰ものなのである。

君が代を歌わせたい男達」の欲望

◆214 名前:やまんば 投稿日:2006/03/10(金) 01:44:28
石原東京都知事はたいそう国旗国歌にはご執心の様だが、祭日・記念日でも自宅には日の丸を掲げていない、という話は案外有名な話である。(多分、君が代も 自分では歌っていないはずである。なぜなら自分が「天皇」のつもりだから・・・w) 

文部省の学習指導要領の普及にあたって、とりわけ国旗国歌の強制導入を主導した文部事務次官の高石邦男は、例のリクルート事件で多額の賄賂を貰った事がバレて、 最高裁で懲役2年の有罪判決を食らった男である。「秘書の妻が、妻が・・・」の無責任な言い逃れに終始して醜態を晒し、余計に有名になった男でもある。 

東京都教育委員会の委員で、将棋指しの米長邦雄は、国旗国歌の強制問題ではもっとも過激派で知られるが、この男は、将棋連盟の会長職を狙って、ライバルの棋士を落とし込める為に、自分の弟子のスキャンダルを横流ししたとも言われている。 
そんな権力欲の強い男だから、園遊会の席で天皇にまで自分の手柄話を持ち込んで名前を売り込もうとしたが、天皇咎められ、これまた大恥をかいた。 

要するに、こんな怪しげな連中が教育行政権力のトップに立ち、偉そうな顔をして子供達に「愛国心」の涵養を訴え、国旗国歌への起立敬礼を強要しているのである。 
範を垂れるならまず隗より始めよ、というのが常識だと思うが、しかしこういうジコチュウ人間に限って、他人には厳しい「規律」を求め、偉そうな説教を垂れたがるものなのである。 

天皇陛下万歳三唱」の場合の常識

日の丸・君が代 総合スレ Part36

◆438 名前:藁んば[sage] 投稿日:2009/11/27(金) 11:59:57
解説者くんは、やたらと不起立教師やそれを支持する人達に、「不斉唱・不起立の理由」を聞きたがるが、逆に、起立派の人達にはその「斉唱・起立の理由」を聞かないわけだね?

もちろん、起立斉唱派の人達は、当たり前の行動をしているだけ、言われているからそのままやっているだけ、特別の理由なんかない、とにもかくにもそれが常識なんだよ、と言うのであろう。

では教育委員会や校長が、卒業式・入学式の場で、日の丸掲揚・君が代斉唱の後に、「天皇陛下万歳を三唱しましょう」とか、「宮城遙拝を致しましょう」とか「両陛下の御真影にお辞儀しましょう」とか突然言い出したら、どうだろう?
それらも君らは「当たり前だ」「常識だ」「社会的儀礼だ」、とか言って素直に応じるのだろうか?

やまんばはまたあり得ない仮定を持ち出す、とか言って君らは答えをはぐらかすだろうが、「当たり前」と言ってしまえば、戦前戦中は日の丸掲揚、君が代斉唱に並んで、それらが学校行事の「当たり前」だった。(三点セット)
そんな北朝鮮金将マンセーみたいな真似を誰も不思議に思わず素直にやっていた。

では、日の丸君が代マンセーと、その陛下万歳、宮城遙拝とはどこがどう違うと云うのだろうか?
戦前戦中は、天皇制の世の中だったからそれは「当たり前」だったが、いまは国民主権の民主国家だから「当たり前ではない」、と言われるのだろうか?
しかし君らは、天皇の治世を祝う歌=君が代を何の違和感も持たずに歌っているではないか?その内に、校長や教育委員会から提案されたら、宮城遙拝も御真影への土下座も、違和感を感ぜず、「当たり前」の行動になるのではないだろうか?
教師にも、その「教育的指導」が「職務命令」として求められるのではないだろうか?
それが、裁判所の云う「通常想定され、期待される儀礼的な行為」と見なされない、という保障がどこにあるだろうか?

ま、かくも「当たり前」「常識」は移ろいやすいものである。
ワシ等が小中高学校に通っていた頃に、学校の行事でそんな日の丸掲揚、君が代斉唱なんて見た事も聞いた事も無かった。卒業式では校歌を歌い、ほたるの光を歌って先生達に感謝の念をささげ、感激の涙(→ウソw)を流すのが「当たり前」だった。そんな場所で、君が代を歌え、などと言われたら怒号が飛び交ったに違いない。

ネットウヨの成れの果て

日の丸・君が代 総合スレ Part43
◆229 名前:朝まで名無しさん[sage] 投稿日:2010/08/30(月) 20:00:37 id:m5XCBAsR
文科省のバッカ教育に洗脳されたバッカな子供達がスクスク育って(身体だけ)、今やネットウヨに成り果て、2ちゃんねるに大集合!!wwww

民主主義を敵視するネット右翼が、文科省の役人(上司)の命令におとなしく従え~~と叫ぶのは、確かに話の筋が合っているwwww

日の丸・君が代 総合スレ Part44
◆23 名前:やまんば[sage] 投稿日:2010/09/27(月) 20:52:00
>>19
>昨夜のやまんばの引用でも、
>明らかに指導要領を逸脱した授業を行っている。

だからさあ、君らに聞いているじゃん。

文科省の学習指導要領に沿った「国旗国歌教育」の内容って何だ?説明してご覧、と。なあ~んにも行為の意味を考えないで、頭を空っぽにして、ただ組織の命令に従う、というのが、その「国旗国歌教育」の内容なのか?
それなら、そう言いなさいよ。

教育というのは本来子供達に自分の「考える力」を養うことじゃないのか?
何にも考えないで、人の命令指示をを聞いていればよい、という教育は、それに逆行するものじゃやないか?

だから根津先生は、オウム真理教のテロ事件を事例にあげて、頭を使わないで上司の命令を黙って聞いていると、人殺しも変だと思わなくなってしまう、そういう事が無いように、きちんと自分の頭で考える力を養おう、と生徒達に教えたわけだ。
なんと、まともな教育ではないだろうか?(藁

正当な職務命令という大義名分

日の丸・君が代 総合スレ Part44

◆653 名前:やまんば ◆bBpWaTff0M [sage] 投稿日:2010/10/17(日) 21:05:37
>反抗は押さえつけていいんだよ。ばっかじゃねーの。
>保護されている分際であることを自覚させて早く独り立ちしたいと思わせるためにな。

そもそも親への「反抗」自体が、子供の「独り立ち」への心理的準備のプロセスなのだが、親に逆らうな、という一方的抑圧が、その子供の心理的準備を遅らせる、あるいはその意志を挫く、という事に気づかないバカ親は、90%以上の確立で子育てに失敗する事になる。(藁

ま、それでも人類の歴史は、子育ての失敗例に溢れかえっていても、成長した大人がすぐに犯罪者になるとは限らないから、(犯罪は一定の社会的環境の問題であるから)、まあ「イッカ」と見過ごされている側面もあり、従って君のような乱暴な論理もいまだ根強い。

石原都知事が、スパルタ教育の信奉者であり、子供殺しを平気で肯定している戸塚ヨットスクールの後援者であることは、よく知れられている。
しかしこんな恐ろしい男が数百万人近い有権者の支持を集めて行政庁の知事をいまだ続けている位だから、日本においては子育て・教育理論が未開文明並みだ、という事実をワシは否定するつもりはない。(藁

http://www.totsuka-yacht.com/nyukai.htm
戸塚ヨットスクールを支援する会 会長  石原 慎太郎

 

日の丸・君が代 総合スレ Part52

◆483 名前:忍者帖で通りがかりのやまんば 投稿日:2011/08/14(日) 20:48:52.77

>正当な命令であれば表現の自由は制限される、それだけの話w

その命令自体が「正当な命令」か否かが問われている時に、最初から「命令は正当だ」という決まった答えを前提にして何事かを説明しているの様に語るのは、明らかにインチキ説法であろう。

例えば、私が、「解説者はバカである、従って彼は社会的制裁を受けるべきである」と厳かに言明したとしょう。
で、解説者クンは、その私の言明を満足な弁論だと思うだろうか?

まず上の弁論には、解説者がどう具体的にバカなのかの証明がない。加えて単に「バカ」だからという抽象的な理由で「社会的制裁」を与えるのが、今の日本社会の法律体系の下で許される事なのだろうか?

解説者クンは、「公務員で礼儀(又は国際マナー)に従わない者は処罰されて当然である」と主張している。
しかし、この主張には「なぜ当然であるのか?」に続く証明がないので、ただ単に「正当な命令は正しい」(AはAである)という無意味な言葉をバカの一つ覚えのように反復暗誦しているに過ぎない。

①国歌斉唱時における「起立」行為は、本当に「礼儀」、あるいは「国際マナー」なのか?
解説者クンは、このスレで一万回も、「起立は礼儀、国際マナーである」と繰り返し叫び続けているが、実はその具体的な証明はこれまでほとんど出された例しがない。たまたま一度だけ出された証明も、「手づかみで食事するのは国際マナー違反」とかいう珍妙な答えであったから、まずその礼儀、国際マナーの「常識」の方を疑った方がよい。

②日本の現行法には、「礼儀に従わなければ処罰を受ける」という様な抽象的な法律は存在しない。
解説者はバカで破廉恥男だから刑務所に行け、と命じる法律がないと同様である。彼が刑務所に行くのは、具体的な刑法条項に該当する行為を行った時だけである。

③礼儀、あるいは国際マナーに従う事がそれほど重大な事柄であるなら、なぜ「公務員の教師」限定の義務になるのか説明がない。
実際に、文科省がそれを学校のイベントに導入したのは、生徒への学習指導の一環としてであるから、マナー違反一般で処罰が問われるなら、それはまた生徒にも及ぶと考えるのが論理の帰納法的必然である。

パロディ:ある公立小学校1年の授業風景(アイコクシン教育)

◆名前:朝まで名無しさん[] 投稿日:2011/09/25(日) 20:20:47.32
先生「みなさア~ん、<アイコクシン>ってシってますかああーー」
子供達、沈黙

先生「みなさん、まっすぐ前を見ましょうねえ
   大きな白地の真ん中に真っ赤っかの太陽がありますねえ
   これを「ヒノマルコッキ」といいます。
   それでは皆さん、先生にならってお辞儀しましょう
   ハイ、ポオーズ、・・・オジギイイイーー」
子供達、お辞儀

先生「はい、ヨ~クできました」
先生「みなさあ~ん、次に<コッカ>を歌います」
   先生について歌って下さい
   チヨニヤチヨニーーコケノムスマデエエエーー」
子供達「チヨニヤチヨニーーコケムスマデエエーー」

先生「ハイ、よく歌えましたネ
  「歌の意味はまだわからなくてもいいのヨ」
  「<オゴソカなキモイ>で天皇陛下さまを尊ぶ歌である
   ことは、これから皆さんが大人になって学びます」
先生 「ハイ、それではもう一度」
   チヨニヤチヨニーーコケムスマデエエエーー」
子供達「チヨニヤチヨニーーコスムスマデエエエーー

先生「みなさア~ん、<アイコクシン>が分かりましたかあーー」
子供達、大声で「ハーーイ、ワカリマシタアアーー」

米国最高裁バーネット判決の意義

oobank.j◆513 :やまんば ◆bBpWaTff0M :2012/03/03(土) 00:23:41.52

統一を強制するこのような試みが究極的に空しいことは、次のような試みの教訓がある。すなわち、異教徒の統一の妨害者としてキリスト教徒を撲滅しようとした古代ローマ人の大運動や宗教的・王朝的統一の手段としての宗教裁判所やロシアの統一の手段としてのシベリア流刑などから、下っては現在のわれわれの敵である全体主義者の急速に失敗しようとしている空しい試みまで。

つまり、このバーネット判例を分かりやすく説明すると・・・

ネトウヨくんたちのお好きな【国家統一教育】の強制を推し進めると、ネトウヨくんらが大嫌いな(?はずの)スターリン毛沢東金日成などがやった官僚独裁全体主義洗脳教育、反対派の暴力的粛清、収容所送り「シベリア流刑」に究極的に行き着くということ、を厳しく警告しているのである。

    アメリカでも一時期マッカーシズムの異端者狩りが大流行して、まさにスターリン国家のアメリカ版再現かと思われたが、 かかるバーネット判決に見られるような、アメリカ人の知性の高さが、こうした一方的な国家主義全体主義の流れに歯止めをかけている。(それでも、9・11事件以降のブッシュ政権の反動のように、歴史は繰り返し過去の教訓を忘れて暴走を繰り返すことがある。)

    論理的な推論からあらかじめ次に起きる事を想定して、事前に(綻びが小さい内に)その予防処置を講じるというのは、文化程度の高い国民性の不可欠な条件であるが、(その為には、多種多様な角度からの意見を取り入れ、反対者の批判にまともに耳を傾ける制度が必要である)、日本人にその知性と体制が欠けているという事は、教育現場における国旗国歌強制に限らず、原発事故のそれでも破局的に証明されてしまった事なのである。それでも反省の無い無脳な人達が、相変わらず空っぽの「愛国マンセー」を叫び続けている。(藁


J・S・ミルの自由論と国旗・国歌の強制

◆602 名前:やまんば ◆bBpWaTff0M [sage] 投稿日:2012/03/04(日) 00:52:05.22
>>597
>人の成育とか、心理とか、共生して生きる・共同体として生きる(→社会的存在として生きる)ということが解ってないだろ?

しかし多種多様な価値観の存在を否定し、「特定の価値観」のみ「正当」性を認める君らのファッシストの価値観では、その個人が「共生として生きる・共同体として生きる」こと自体を否定する事になるだろう。

J・s・ミルの『自由論』を読むがよい。

「社会が個人に対して強制と管理という形で干渉するとき、その為に用いる手段が法律による刑罰という物理的な力であっても、世論という社会的な強制であっても、その(個人に対する)干渉が正当かどうかを決める絶対的な原則とはこうだ。

人間が個人としてであれ、集団としてであれ、誰かの行動の自由に干渉するのが正当だと言えるのは、【自衛を目的とする場合】だけである。文明社会で個人に対して力を行使するのが正当だと言えるのはただ一つ、他人に危害が及ぶのを防ぐことを目的とする場合だけである。本人にとって物質的にあるいは精神的に良いことだとiう点は、干渉が正当だとする十分な理由にはならない。あるいは行動を強制するか、あるいは行動を控えるように強制するとき、本人にとって良いことだから、本人が幸福になれるから、さらには強制する側からみてそれが賢明か正しいことだからという点は正当な理由にはならない。」(光文社文庫p27-28)

お分かりかな?いまこのスレで議論していることは、君や私の価値観が正当だとか、賢明だとか、精神的に良いことだ、とかを一生懸命相手に説得する問題ではない。むしろ異なった考え方、対立する考え方、多様な価値観をもつ人達が、一つの体制、一つの社会共同体の中で平和的に、生産的に「共生する」その【合理的な社会システム】の問題なのである。
その方途を示さず、ただ己の価値観(思いこみの日本人観でも構わないが)のみを一方的に主張するのは、この平和共存の道を閉ざし、文字通り国内を暴力的闘争の場に変えるということである。(イラクシーア派スンニ派が一つの領土を巡って生き残りの宗教戦争を展開しているごとく)

 

◆604 名前:やまんば ◆bBpWaTff0M [sage] 投稿日:2012/03/04(日) 01:01:29.42
上記の話を踏まえて、再度バーネット判決を読むがよい。
結局、この判決文でアメリカの裁判官が言っていることは、上記に引用したJ・S・ミルがその『自由論』で語っている「合理的社会システム」論とほとんど同じ核心である事がわかる。

http://kohoken.s5.pf-x.net/cgi-bin/folio.cgi?index=bun&query=/lib/khk195a2.htm

> 今われわれの前にある問題は、この原理の例証である。自由な公教育は、非宗教的教育と政治的中立の理念に忠実であるならば、いかなる階級、宗教、政党、党派の敵味方とはならないであろう。
>しかし、もしそれがイデオロギー的教育を行なうとすれば、各政党、宗派は教育制度の影響を抑制しなければならない、
>あるいはそれに失敗しても、弱めるようにしなければならない。
>憲法の制限条項の遵守は、その運用が適切であれば政府を弱めることはないだろう。


◆608 名前:やまんば ◆bBpWaTff0M [sage] 投稿日:2012/03/04(日) 01:31:25.08
>>605
>人に対して「思想は押しつけるな」と文句を言っておきながら、
>自分は押しつけるとか、ダブルスタンダードだよなぁ。

解説者クンが押しつけているのは、自分が勝手に思い込んだ【国際的マナー】とかいうやつでしたよねえー。

「手づかみで食事する」のは国際マナー違反とか言ってましたが、そんな国際マナーは聞いたこともないし、そもそもそんな些末な問題で、目くじらを立てて他人にマナーを強制するのもどうかしている。

確か、国歌も校歌も同じようなもので、さしさわりのない無意味な歌だから歌ったって構わないジャンとかも言ってましたが、それなら歌わなくたって構わないジャン。(意味不明の歌を歌をただ口パクで唄わされる子供達も悲惨です。)

こんな調子なので、解説者クンの押しつけ理由はほとんど思想以前のデタラメとしか言いようがない。少なくとも、国旗国歌を押しつけている人達は、文科省とか教育委員会とか学校校長とか、権力機構の担う人達だから、「思想を押しつけるな」と言うなら、むしろ権力側に自制が求められるのが当然でしょう。

 

◆621 名前:やまんば ◆bBpWaTff0M [sage] 投稿日:2012/03/04(日) 11:28:58.80
>>612
「たとえば、酩酊や怠惰は、不行跡ではあっても、他人の利益を害さない限りは、他人の干渉を受けるべきではないが、もし彼が過去に酩酊して他人に暴力を加えた等で有罪歴がある者の場合、あるいは怠惰ゆえに家族の扶養義務を履行しない場合などは、法律をもって干渉されるべきである。」 岩波文庫「自由論」p195より引用

こんな事は当たり前だよねえ。誰がこんな事を否定しているの?

私が最初に引用したミルの文章の中にも(>>602)、
「文明社会で個人に対して力を行使するのが正当だと言えるのはただ一つ、他人に危害が及ぶのを防ぐことを目的とする場合だけである」
とはっきり謳っているのだから、上記の「酩酊や怠惰」が「他人に危害をもたらす」ケースで、社会の強制力を持って個人の行動が抑制されるのは当然の事である。

しかし問題は、学校の教師や生徒が、国旗国歌への起立斉唱を拒んだようなケースで、それを上記の「酩酊して他人に暴力を加えた有罪歴がある者」と同列に論じ、かつその者に「法律を持って干渉し」個人の自由を奪う、あるいは制限する事が認められるのか?という点にある。

この点で解説者クンが、J・S・ミルの文章から自説の正しさを立証するであれば、【学校の教師や生徒が、国旗国歌への起立斉唱を拒む】事によって、一体どんな【他人の利益が害された】のかを、十分に説明しなければならない。

少なくとも、一部のウヨクや解説者クン等のネトウヨくんらが、【気分を害した】【嫌な気分を味わされた】【腹が立った】程度の【理由】で、学校の教師や生徒の自由権に干渉を加える事が許されるのか、という問題である。

解説者クンは、自由権を主張する人々に対して常に「我が儘」「私情」だと非難するが、果たしてこうしたケースで【我が儘】【私情】を主張しているのは、どちらの側なのか?この点は非常に核心的な問題なので、十分に熟慮していただきたいものである。

 

◆622 名前:やまんば ◆bBpWaTff0M [sage] 投稿日:2012/03/04(日) 11:33:42.41
だが、何時の時代にも、ネトウヨくんらのような我が儘・ジコチューな人はいる者である。一層始末に悪いのは、それが無自覚な点である。

自分達の意見があたかも社会の多数派であり、【常識を主張しているに過ぎない】と、世界がまるで自分達を中心に回っているかのように錯覚して、他人の自由権にあれこれ口を差し挟む。口で批判するだけなら、まだ言論の自由の範囲であるが、官憲に訴えて、他人の自由権に強制的・暴力的干渉を加えようとする。

J・s・ミルには、この様な状況は手に取るように見えていたわけである。 

>だが、個人のみに関係する行動に社会が干渉すべきでないとする理由のうち、もっとも強力なものは、干渉した場合に、間違った方法で間違った部分に干渉することになる可能性が高いことである。社会道徳の問題、他人に対する義務の問題であれば、社会の意見、つまり支配的な多数派の意見は、間違っている場合もあるが、正しい場合の方が多いとみられる。こうした問題あれば、自分自身の利害だけを判断するだけでよく、ある形態の行動を許容したときに、自分自身にどのような影響が及ぶかを判断するだけでいいからだ。

>しかし、個人のみに関係する行動について、同じような多数派の意見を法として少数派に>強制した場合、正しいことも間違っていることもほぼ同じくらいにある可能性が高い。この場合、社会の意見はせいぜいのところ、他人にとっての利害得失に関する一部の人>の意見にすぎず、そうですらないことが多いからだ。
世論がある行動を非難するとき、まったく冷淡な姿勢をとって、その行動をとる人の好みや>都合を無視し、自分たちの好みだけをいいたてることが多いのだ。

 

>自分が嫌う行動がとられているのをみると、害を受けたと考え、感情が傷つけられたと憤慨する人は多い。頑迷な宗教家が、他人の宗教心を無視していると非難されて、不愉快な礼拝や信条に固執する連中こそ、自分の感情を無視していると反論したという話がある。しかし、ある人物が自分の意見に対してもつ感情と、その人がその意見をもっていることに憤慨して他人がもつ感情では、大きな違いがある。他人の財布を狙う盗人の望みと、自分の財布を盗まれたくないという所有者の望みの間に大きな違いがあるのと同じだ。(J・S・ミル『自由論』光文社文庫p186-187)

私がすでに>>602で書いたように、ミルの自由の核心は、異なった考え方、対立する考え方、多様な価値観をもつ人達が、一つの体制、一つの社会共同体の中で平和的に、生産的に「共生する」その合理的な社会システムを如何に構築するか、という問題である。
(思想言論を統制し、多様な意見を排除する試みが、如何に貧困で陰惨な社会状況を作り出すからは、社会主義官僚独裁の実験の中ですでに証明されている。)

ネトウヨくんたちは、特定の価値観を持つことは自由であるが、(日の丸は綺麗だとか、君が代は聞いていてうっとりするだとか、天皇制が無ければ日本人は消滅するだとかの主観的な判断)、その特定の価値観を、国家権力の強制装置を使って、あるいは教育機関を独占して国民に(公務員でも同じ)、強制するのは少なくとも民主主義のルール違反である、ということ位は少なくとも自覚すべきであろう。

◆641 名前:やまんば ◆bBpWaTff0M [sage] 投稿日:2012/03/04(日) 20:12:27.28
>>632
>もちろん、「卒業式の進行を妨害した」と言う他人の迷惑をかけているのだがねぇ

何度もJ・S・ミルの話を持ち出して申し訳ないが、こうした解説者クンの根拠のない妄想を耳にすると、やっぱりミルが上記の文章で指摘した光景そのまんま思い出さざるを得ない。(藁

「自分が嫌う行動がとられているのをみると、害を受けたと考え、感情が傷つけられたと憤慨する人が多い」(>>624)

つまり感情論に流されて、正確な事実関係が見えなくなっている。坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、の例えにあるようにそれが取るに足りない些末な行動でも、ネトウヨ君らには、不起立教師の行為は、なんとしてでも「ハレンチな悪行」であった事にしなければ気が済まないのだろう。

しかし実際に、その会場で黙って座っている行為(不起立)が、一体どれほど「卒業式の進行の妨害」になったというのであろうか?
解説者くんは、その会場を目撃したのだろうか?会場でパニックが起きて大混乱になり卒業式が中止にでもなったのだろうか?
それなら、都教委による不起立教師の処分は、単なる「訓告」や「戒告」では済まないだろうし、実際都教委の処分理由にも単なる「服務事故」とあるだけで、「式典の妨害」などは処分理由に挙げられていない。

会場にいた校長や教頭、教育委員会から送り込まれた監視員、ウヨクの都議などが大騒ぎを起こさない限りは、怖らくその式典は--不起立教師や生徒が何人居ようと--結果的には何事もなかった様に「無事完了」という事になったであろう。

いやその程度の人畜無害な行動でも、やはり世の中には、どうしても【自分が嫌う行動が取られている】のをみて【感情が傷つけられたと憤慨する】頑迷な人達はいるでしょう。解説者クンもそうした人達の典型的な一人と言えるでしょう。

しかし、やっぱりここでも、感情的な意見と、正確な事実認識に基づく理性的な判断とでは、後者を優先すべきなのです。

 

◆643 名前:やまんば ◆bBpWaTff0M [sage] 投稿日:2012/03/04(日) 20:36:52.95
>>641
>それを判断するのは個人ではなく社会だってのに。

だ・か・ら、今問題の中心は、個人の自由権に対して「社会」が(正確にいうと【行政権力】だが)制限を加える正当性の根拠は何か?を問うているわけで、最初から社会が(正確にいうと【行政権力】だが)個人に対して無制限に権力を振るうのが正当であるというなら、それは最初から個人の自由権などは存在しないと言っているようなものである。(江戸時代の大衆の様に、幕府の役人に意見具申はできるが決定権は全て役人が持っている、という事)

どうやら解説者クンは、「我が儘」を主張するのはいつも個人の方で、行政権力が「我が儘」な事はやらないと確信しているらしい。それなら、解説者クンは、民主党政権増税要求にも、「社会」の当然の判断として黙って大人しく従わなければならないだろう。(藁

>ミルは「迷惑をかけているかどうか個人で判断してもよい」とか言っているのかねぇ?w

ミルが言っているのは、「社会」の「共同利益」がその個人によって侵害されたという明白な証拠がない限りは、最大限、個人の自由の権利は認められ、保障されるべきだ、という考えです。

日本国憲法では、この「社会の共同利益」は【公共の福祉】という言葉に置き換えられています。

>第一三条、全ての国民は個人として尊重される。生命、自由及び幸福追及に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大限の尊重を必要とする。

つまり、解説者クンの言うような意味不明で曖昧模糊な【迷惑行為】で、個人の自由が制限されるというような事は、近代の文明先進国の憲法のどこにも謳われていないわけです。(藁

 

◆650 名前:やまんば ◆bBpWaTff0M [sage] 投稿日:2012/03/04(日) 22:43:11.53 >>633
>「子供の親が望むなら宗教でも何でも教えればよい」とも言っているのがミルなんだがw

ああ、そういう事は言ってますね。
私も、別に公立学校で、宗教を教えたって構わないと思いますね。戦前の修身教科書の内容だって、日の丸君が代の由来だって、ついでに共産主義思想だって、教えていいと思いますね。それはこういう意味ですね。

>賛否両論のある問題で、政府が国民の結論をどちらかに導こうとするのは、すべて害悪である。しかし、考える価値のある問題について自分で結論を下すのに必要な知識を各人がもっているかどうか国が確認し証明しようとするのは適正だと言えよう。
>哲学を学んでいる学生なら、ロックとカントのどちらに関する試験にも合格できるようにするのは良いことでありどちらの見方も否定する場合ですら、良いことである。
>また、無神論者にキリスト教の正しさを示す証拠について質問しても、キリスト教信仰告白を求めない限り反対する理由はない。しかし、高度な知識についての試験はすべて任意でなければならない。
>資格を欠くと判断した人を専門職から、教師の職からすら排除する権限を政府に与えるのはあまりに危険である。(J・S・ミル『自由論』光文社文庫p237)

こうした観点からすれば、「政治的中立」、「学問的中立」を謳いながら、結局は何も教えない(しかし、こっそりと自国への愛国イデオロギーだけは注入する)日本の公立学校教育では、頭の空っぽなネトウヨくんみたいな無教養な子供さん達しか育たないと思いますね。

 

◆658 名前:やまんば ◆bBpWaTff0M [sage] 投稿日:2012/03/05(月) 01:30:07.82 id:kpy5Rj2r [1/3]
>>651
>加害者側が言うことじゃない、「スキンシップ」と言うセクハラ親父と同レベルw

で、解説者クンは被害者側というわけかな?実際、不起立教師からどんな被害を受けたの?

>「卒業式の進行妨害」も立派な服務事故、迷惑行為だろうにw

客観的事実として「進行妨害」など無かったと言っているでしょ。教育委員会も裁判所もそう認定しているのに、どうして部外者の君が、「進行妨害」で迷惑を被ったなどと、嘘の証言をするの?

>それともミルは「小さな迷惑ならやっても良い」とでも言っているのかねぇ?

ミルは「迷惑」など全然問題にしていませんけど。そもそも「迷惑」ってなに?
人は多かれ少なかれ他者に迷惑を掛けて生きていますよ。親が病気で寝たきりになったら子供はその親の
面倒をみなければならないし、子供がいなければ、どこかの介護施設や病院のお世話にならなければいけない。
「お世話」と「迷惑」の境界なんて、そんなはっきりしたものがあるわけじゃない。それで助け合いがあり、相互扶助の関係が発生する。
他人に完璧に迷惑を掛けない生き方を選ぶなら、どこか離れ島で一人で生活するしかない。
純真な子供がいじめにあって、逆に自分の存在が他人にとって「迷惑な存在」なのだという自責の念から自殺した例すらある。

私にとって、君らのようなネトウヨの存在は社会的環境を悪化させているという意味で、実に迷惑な存在ですよ。
でも抹殺はできないし、実害の程度も取るに足りないものだから、そうしようとも思わない。かくも「迷惑」などという言葉は抽象的で曖昧な概念です。そういう曖昧な基準を使って、他人を法的強制力用いて裁くような真似はすべきではないのです。

◆660 名前:やまんば ◆bBpWaTff0M [sage] 投稿日:2012/03/05(月) 02:05:42.69 >>652
>ま、やまんばちゃんの指摘をするのであれば、「自分たちは迷惑をかけていない!」と加害者側が言い張っているだけなんだよなぁw

いや、私はあえて「迷惑をかけていない」などと言うつもりはないな。そりゃ、どうしたって日の丸と君が代、国家と天皇制を妄信している(あ、失礼、「尊敬している」だったかな?)人々がいる事は事実で、しかもある程度日本国民の多数派である事も事実であろうし、彼等にとって、それ(不起立・不斉唱)が「不愉快」「面白くない」「腹が立つ」・・・等々のいわば【迷惑行為】であることは、全然否定するつもりはない。

しかし、あえて言えば、その様な【迷惑】は、大人としての常識的社会生活の中では、君らが甘受すべき事柄なのです。
それはわれわれが日常で見聞きした他人の不愉快な言動を、一々警察に訴えて取り締まる事が、思想言論の自由の権利を著しく侵犯する事に繋がる恐れがあると懸念して、あえてその様な言動を見逃す、無視するという行動を取る事と一緒です。

つまり、思想言論の自由を守ろうとするならば、そうした微細な「迷惑行為」に関しては、言論上の批判にとどめて、あえて容認するという大人の寛容の精神がなければならない。
そもなければ、結局ところ、思想的対立、価値観の対立、宗教上の対立は深刻な社会的分裂を引き起こし、その分裂は強権的、暴力的な闘争によってのみ決着がつけられる事になるだろう。
ウヨクの諸君も社会的流行に乗って、あまりお調子に乗りすぎない方が賢明なのである。(藁 

ダブルスタンダードのルール違反

◆311 やまんば ◆bBpWaTff0M [sage] 投稿日:2012/12/10(月) 19:18:48
>>298
>要はルール(法律)だから守れというのは為政者として正解。

でもさあ、前にも説明したけど、石原慎太郎都知事(前)みたいに、「ルール(法律)」なんて勝手に無視してしまう為政者もいるんだよねえ。
憲法なんて守る必要がないと明言しているし、裁判所の判決だって、自分が気に入らなければ「とんでもない裁判官」の判決で、そんなモン無視して構わない態度です。

実際、国旗国歌への起立敬礼を都内公立学校の教職員に義務付けた、都教委の10・23通達は、石原都知事の強い要請で行われたものです。この通達違反を口実に不起立教師に出された都教委の処分は、すでに各級裁判所の判決で、戒告以上の懲罰的処分は、裁量権の逸脱で無効(違法)という結論が出ています。
橋下徹大阪市長も、職員に対して行った思想調査が違法な職権濫用にあたるとして、その撤回を余儀なくされている。

つまり、「ルール(法律)違反」は、為政者の側でもやるし、むしろその権力者のルール(法律)違反の方がよっぽど(強権力の行使を伴うだけに)悪質で、怖い。

ところが、わがネトウヨクン達の視点は、もっぱら弱い立場の国民や下級公務員の「ルール(法律)違反」には、徹底的に厳しいが、お気に入りの政治家や霞ヶ関官僚や警察などの文字通りの権力者のルール(法律)違反には、全くもって寛容なんだよねえ。
警察なんて、不正の温床みたいなもので、ルール(法律)違反なんて日常茶飯事だが、ネトウヨくんが警察の不正を追及している話などほとんど聞いた事がないよねえ。

日本人には昔は「判官贔屓」という「美風」があったらしいが、時代も下って、今の時代の意味する「判官贔屓」とは、薄幸であったり、弱い立場に立たされた人(この場合は源義経)に対する同情の意味でなくて、まさに強い立場の「判官」=権力者(この場合源頼朝)に対する、「えこ贔屓」の美風に変わってしまったのだろうか?(藁

2012年最高裁判決=「基本的に戒告処分までが懲戒権者の裁量の範囲」元教諭の停職処分の取り消し

◆317 自分:やまんば ◆bBpWaTff0M [sage] 投稿日:2012/12/10(月) 22:52:20.71
>>315,>>316
>通達は最高裁て合憲と認められてるよ

私は「処分」の話をしているのですが。↓これが日の丸君が代関係の裁判の最新判決です。 

君が代訴訟で賠償を初認定 東京高裁差し戻し審
2012.11.7 19:26

>学校行事で国歌斉唱の際に起立しなかったことなどを理由に停職処分を受けたのは不当として、元東京都立養護学校教諭の女性(62)が都に300万円の損害賠償を求めた訴訟の差し戻し控訴審判決が7日、東京高裁であった。
>南敏文裁判長は「処分は一律的に行われ、慎重に考慮されていなかった」として都教育委員会側の過失を認定、30万円の支払いを命じた。
>不起立をめぐる懲戒処分に対し、賠償が認められたのは初めて。

>元教諭は平成18年1月の学校行事で国歌の起立斉唱に応じず、停職1カ月の処分を受けた。処分取り消しと賠償を求めた元教諭らの訴えに対し、最高裁は今年1月、「基本的に戒告処分までが懲戒権者の裁量の範囲」と判断。元教諭の停職処分の取り消しを命じ、都教委側の過失の有無などを審理し直すよう高裁に差し戻していた。

石原慎太郎都知事(前)は、不起立教師の首を全員切りたかったんだろうけど、日本は一応法治国家スレスレなので、暴君もそこまでは出来なかったという事でつね。

いずれにしても「30万円を払え」という裁判所命令が出たのだから、その賠償金は、その処分に関わった責任者の役人(東京都教育委員、もしくは前東京都知事)に支払わせるべきだと思うけど、君はどう思うかな?

 

上意下達の職務命令
◆455 名前:やまんば ◆bBpWaTff0M [sage] 投稿日:2012/12/13(木) 23:26:48.06

>>433
>職務命令は校長から出てますよ。

校長とか言っても、いまは教育委員会(正確には文科省の下請けの教育局)の下級職員だからねえ、全然人望もなければ、職務権限も無いんだよねえ。(藁

中には、土肥信雄氏(元東京都三鷹高校校長)みたいに、生徒の事を考えて、教育委員会の理不尽な命令に真っ向から逆らう立派な人もいるけど、まあ、ほとんど千人に一人だろうねえ。
佐高信から、「あなたみたいな人がよく校長になれましたねえ?」と聞かれて、どうして都内の校長になれたのか自分でも分からないと答えている位だから、よっぽど希有な校長だったんでしょうねえ。(『それは密告からはじまった-校長 vs 東京都教育委員会七つ森書館、参照)

そもそも「職務命令」は、(実質)教育委員会が出しているのですから、君の思い違いですね。

国旗国歌への礼儀作法、国際マナー、国際常識とは?

◆431 自分:やまんば ◆bBpWaTff0M [sage] 投稿日:2012/12/13(木) 18:09:54.34
見ず知らずの人に、いきなり「敬意を払え」とか、それが「国際マナー」とか「世界の常識」とか言われたら、特に国旗国歌に違和感を持っていない人でも、「ムッ」とするよね。見ず知らずのお前なんかに言われたくない、とか。(笑

「敬意」というのは、やっぱり自分が感じるごく自然な態度で表明すべきもので、他人から強要されるものではないでしょう。

そもそも儀礼作法なんて「世界共通」のものなんかあるのかしら?日本式儀礼作法なんて、その珍しさでは世界遺産クラスで、映画の脚色などでも、東洋人の顔をしてペコペコお辞儀をする人間をみたら、まず日本人を連想する話になっているんじゃないかしら?

誤解のないように言うと、珍しいとか希有だとか言う理由で悪い、なんて言っていないんだよ。ただそんな礼儀作法を、「国際マナー」とか「国際常識」とか的外れの事は言わない方がよい、と言っているまでだ。
とんでもない勘違いで、むしろマナー違反で恥を掻くのは自分の方かも知れないし。

自分の国(日本)は世界の一等国なので、自分の国の「マナー」も一等賞で、世界標準に違いない、とか勘違いしてはいけない。
それでなくとも、つい数十年前まで、わが大和民族は、「大東亜共栄園建設」とか「八紘一宇」とか、特異で独善的な価値観をアジアの諸国に「世界標準」として押しつけようとして、大反発を受けた歴史がある。
「日の丸」を見ただけで頭に血が逆流する外国人もまだいるみたいだ。

本の学校の「卒業式」「入学式」も、最近は厳粛さだけが売り物の葬式みたい儀式になってしまっているようだが、それが日本の古き良き伝統で、どうしてもその「厳粛さ」を守りたいと保守系の諸君が懇願してやまないのであれば、その「厳かな儀式」の雰囲気自体には無理に反対はしないけど、(確かに、葬式の場に「笑顔・笑顔」はなじまないでしょうからw)、ただ調子に乗って、君が代斉唱の後に、天皇陛下万歳三唱とか、御真影奉拝とか、宮城遙拝とか、教育勅語朗読とか続くのは、勘弁願いたいもんだね。
また、それもいつの間にか「国際マナー」「国際常識」とか言われ始めるのでしょうからね。(笑