yamamba’s diary

日朝国交正常化なくして、拉致問題の解決はなし

大義のない戦争に反対する 2003年3月FSHISO

FSHISO MES( 9):時事問題討論室 03/03/17 -
17531/17534 QGB02146 TATEO

大義のない戦争に反対する

■ 私の戦争反対の理由
私が戦争に反対する理由はいくつかありますが、しかし、やはりその中で重要な点は、<大義のない戦争は絶対にすべきではない>、という事です。

そういう意味では私の立場は、日本の国是たる憲法9条の絶対平和主義の立場とは異なります。
戦争は嫌でも、時にはやらなければならない場合もありうるでしょう。それは<自衛のための戦争>の場合です。
もし日本に敵対的な国があり、その国の軍隊が日本の領土に攻め込んでくれば、応戦するしかないでしょう。
日本の場合、そんな<自衛の戦争>は、史上、中世のモンゴルに攻められた時くらいしかないのですから、(あとは幕末に、欧米列強国からの軍事的圧力を受けた時)かなり無理な想定部分もありますが、やはり何らかの国防対策は必要だ、というのが私の立場です。

そうした点から考える時、今回のアメリカによる対イラク戦争に、日本政府が支持を与え、あるいはその戦争に荷担する、何か<大義名分>があるのでしょうか?

多分、何もありません。
アメリカのブッシュ政権によって企図されている戦争は、イラクの石油、中東におけるアメリカの石油利権の確保を狙ったむき出しの略奪の戦争、強盗戦争以外の何ものでもありません。(理由は他にも考えられますが、まず一番の理由はこれでしょう。)これほど、大義名分のない戦争も史上空前と言ってよいでしょう。

それは、アメリカの自衛の戦争でもありません。
アメリカ本土が、直接イラクから軍事的に攻撃されたわけではありません。
名目は、その可能性がある、というだけです。
フセイン政権を打倒しない限り、アメリカに軍事的脅威になる、だから<やられる前にやる>、つまり先制攻撃が許されるという理由です。2002年9月にまとめられたとするアメリカの「国家安全保障戦略」ではこの先制攻撃の概念が政策の重要な柱として打ち出されました。
ここに、この戦争は大義がないだけでなく、無制限に世界戦争へ発展・拡大する可能性のある、際だって危険な性格の戦争である事が分かります。

日本政府=小泉政権は、その戦争に大義がない事を知っているから、その戦争支持の理由を国民に公然と説明することなく、裏に回ってこそこそと動き戦争支援策をまとめているでしょう。
(しかし彼らは多分、この戦争の本当に<危険な性格>を読み取って動いてはいないでしょう。ここに小泉、福田、安倍、石破ら自民党政権上層部のノーテンキぶりがうかがえます。)

では<大義名分>はともかく、日本がこのイラク戦争を支持する本当の理由は何でしょうか?
フセイン政権が日本にとっても軍事的脅威だから、などとはとても言えた話ではないでしょう。
また仮に軍事的脅威を認めたにしても、攻撃された訳でもないのに先に戦争を仕掛けるのは<自衛の為の戦争>概念を逸脱した、国際法違反の戦争行為になります。

結局、理由らしき理由は、最後に、アメリカが日本の親しいパートナーであり、比類無き同盟国だ、という関係の問題に帰着します。
つまり友人の戦争を支持するのは当然だ、という屁理屈くらいでしょう。

ここに日本の没主体的な日和見外交の全てが集約されています。
日本の国益はどうなるのでしょう?
そのアメリカの危険な戦争を支持することで、日本の国益は損ねられないでしょうか?
先の湾岸戦争では、日本は1兆数千億円もの軍資金を提供しながら、何一つ国際社会から評価されなかったと言われています、それどころか、アメリカは湾岸戦争以降、その比類無き国威をバックに、1990年代の未曾有の好景気に沸き立つ一方、日本はそれ以降、長期の不況のどん底に突き落とされました(それは直接的には1985年のプラザ合意以降、系統的なドル安円高誘導の政策によっても流れが作られました)。

こうした事情が物語る事は、この戦争支持の理由は、日本がアメリカの同盟国だからではありません。日本は属国として、アメリカの命令に従わされているだけなのです。
従って、その政策は、日本人の命を抵当に入れ、日本の国民的利益を外国にアメリカに引き渡す売国的政策に他なりません。あるいはこの政策で、アメリカのグローバル市場経済の支配に乗っかって、一儲け二儲けをたくらむ売国奴的資本家だけがうるおうのみです。

もはやこの戦争を支持する大義名分は何一つありません。
ただ奴隷の様に、アメリカの命令に従わされているだけです。
日本の政治家や外務省の役人は、それが国民に知られる事を恐れて(何故ならそれを知られれば、国民から「売国奴」として弾劾を受け、首になるからです)、裏で姑息に動き回っているのです。

そして大義のない、道義に反した戦争を行えば、仮にその戦争に一時的に勝利したにしても、世界中にその遺恨を残します。そのツケは必ず回ってくるでしょう。
隙があれば、必ず一度は屈服させた相手からの報復と反撃を受けるでしょう。

アメリカはそれを強大な軍事力、日本の国家予算のほぼ半分にもなる巨額の国防軍事予算の投入、有りとあらゆる大量殺戮兵器の開発等々で、世界中を軍靴の下に置き、力でねじ伏せようとしているのです。
日本も当然、アメリカの手先として世界中の国々から敵対視されるでしょう。
日本もまた益々その脅威に怯え、更なる軍事力強化の方向に走らざるをえないでしょう。
北朝鮮問題はそのさきがけであり、小泉政権はなし崩し的に国防体制の強化に乗り出しているのです。

■ 戦争問題とFSHISOの関係
先の大戦で壊滅的打撃をうけ戦争の凄惨な事実を経験したわが国日本では、長い間、世界の平和運動の中心的存在であったでしょう。
しかしそれ等は、ただ核爆弾等の戦争の残酷な事実、悲惨さだけを訴えるものであり、本当の意味での反戦運動と結びついていた訳ではありません。
何故なら、平和は、祈る事やそれ自体を希求する事で実現するのではなく、戦争が引き起こされる事の原因、理由を解明し、それとの周到な戦いなくしては守られないからです。

しかし、日本では絶対平和を国是として、その戦争の原因究明がおろそかにされ続けてきたのです。朝鮮、中国等に行った日本の侵略戦争の歴史がきちんと経験的に総括されていないのです。だから、先の大戦の教訓は、アメリカから一方的にやられた事の臆病な精神しか残らなかったのです。
今日の日本における反戦運動の停滞の主要な根拠の一つが、ここにあるでしょう。

戦争は、明確なそれを意図した特定の政治勢力の手で引き起こされます。
たまたま軍隊同士がどこかで遭遇して、衝突が始まってしまったという類の物語ではないのです。
だから、戦争前には系統的に、戦争を煽る政治的プロパガンダが開始されます。北朝鮮問題がその良い事例です。
とに角、明確な敵を作りだし、敵を悪党に見立て、その戦争に何が道義があるかの様な口実が系統的に作り出されます。金正日体制下での大衆の悲惨な状況が放映され、国民の中にその金独裁政権への敵愾心が持ち込まれます。しかし、日本のマスコミがこれまでの歴史において、朝鮮人の人道問題をそれほど心配していた事実などあるでしょうか?
やはりそこには隠された政治的意図があると判断すべきでしょう。

戦争の真の目的の多くは、経済的利益の拡大・追求でしょう。敵対国の軍事的脅威などは全くのでたらめで、国防予算を拡大する為の口実でしょう。
私は、こうした戦争プロパガンダの手法を、この場で系統的に暴露してきたのです。
こういう意識的な戦争策動を暴露する活動が無ければ、必ず戦争勢力に、知らぬ間に、ずるずると国民は引きずり込まれます。かって満州関東軍が居座り、彼らの戦争挑発により日本がずるずるとなし崩し的に戦争状態へ引きずり込まれた様にです。
北朝鮮問題での日本人拉致被害者の会のやっている事も、従って平和を求める活動ではなく、明白な戦争挑発の行動になりうるのです。

FSHISOは、ほとんと組織とも呼べないほどの小さな仲間の集まりかも知れません。しかしそれでも、やはり言論機関の一部と言えるでしょう。
そこでの発言が外に持ち出されれば、それ相応のインパクトを持ち、かつ外部からの強力な圧力を被る可能性のある言論機関の一部でしょう。

戦争は、その言論活動における最大の危機なのです。
戦争は、激しい利害関係の衝突を引き起こします。それは他人(他国の大衆)の自由、権利、生存自体を脅かし、それを奪う行為だから当然です。
お互いが自分の側の自由、権利、生存を主張して、相手の自由、権利、生存を真っ向から否定する運動です。当然、それは殺し合いも伴うでしょう。
そうした時代には、言論活動もまた、それまでの平和的討論で済んでいた問題が、戦いの場に変わるのです。必然的にそうならざるを得ません。日本政府の戦争荷担が一層進み、それへの国民動員が進めば進むほど、国内
的情勢は更に緊迫するでしょう。(有事法制化、情報管理強化他)

しかしFSHISOは、その事を知っているが故に、これまで戦争問題に無関心を装い、避けて見ぬふりをし、寝たふりをしてきたのです。文字通り、臭いものには蓋、という訳です。
それをやれば、文字通り、戦争支持派と反対派の激しいバトルになるからです。これまでのFSHISOでの数多いバトルなど問題にならない程激しい戦いになります。(会員数が昔より減って発言数が少ないから、そう見えないだけです。)
だから、FSHISOのシスオペ氏は、昔のからの良き静かなFSHISOを語り、中立的立場で言論機関の存続を願っているのです。それが、可能なら、そうすべきでしょう。何もしないで言論の自由が守られるなら、それはそれで結構な話です。
しかし戦争の問題を正面から取り上げ、議論に挙げなければ、既に述べたように言論機関の死につながります。
言論の自由は斗いによって守られなければならないのです。

ここにパラドックスが隠されているのです。
闘争の場に変われば、空中分解するかも知れないし、それを議題に取りあげなければ、無力なお遊びサークルとして「現代思想フォーラム」の看板を裏切り続け、自然死を待つのみです。
私は、先にこの警鐘を鳴らしたのです。

取りあえず、私はここから先の結論は言わない事にします。実際どうなるか、この先の事は誰にも分からないからです。状況がそうした段階に来ている、という事実だけを指摘しておきたいと思います。
バトルは既に開始されているでしょう。